口熊野・弁慶について

平安時代から江戸時代にかけて多くの参詣者で賑わい「蟻の熊野詣」とまで呼ばれた熊野古道は、京都から大阪、和歌山、田辺を経て熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社「熊野三山」へと至ります。このうち田辺から本宮・新宮・那智に続く山岳道がのちに「中辺路」と呼ばれ、平安時代、鎌倉時代に皇族や責族が何度も詣でた「熊野御幸」ではこの中辺路が公式参詣道(御幸道)となりました。
田辺から上富田周辺の地域はちょうど熊野古道への入口にあたる事から「口熊野」(くちくまの)と呼ばれています。
険しい山岳道を越えるにあたり、当時の参詣者達はこの地で水垢離(みずごり)をし、心身を清めたと言います。この内、温泉に浸かり身を清める事を湯垢離 (ゆごり)と言い、熊野古道中には修験者、参詣者が身を清めたと伝えられる湯垢離の温泉が残っています。
現在の古道は歩きやすく、当時のような険しい山々を何日もかけて越える道のりではありませんが、熊野古道が世界遺産として脚光を浴びている今、皆さんも当時の参詣者達の様子を思い浮かべながら、温泉に浸かり、身を清めるのもおもむきがあるのではないでしょうか?
三栖王子手前から東へ、長尾坂を登り潮見峠を経て中辺路町へと至る道が「潮見峠越え」です。潮見峠の名の由来は、本宮からの帰り道、この峠から熊野の海が一望できた事から名付けられました。 | ![]() |
源義経(みなもとのよしつね)との物語で親しまれる武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)は、歌舞伎や人形浄瑠璃などでもよく知られている人物です。しかし、彼が実在した人物であったかどうかはさだかではなく、五条橋での義経との出会いや仁王立ちで大往生を遂げるという逸話が伝説として伝えられています。
JR紀伊田辺駅前の広場には弁慶像が建てられており、田辺市のシンボルとして親しまれています。一説に、弁慶の出生地は田辺だと言われています。『義経記』の記述によると、弁慶は熊野別当家の嫡子(ちゃくし)で、幼名を鬼若とあり、比叡山で修行を行った後、山を降りるにあたって自ら名付けたのが、西塔武蔵坊弁慶という名前であると記されています。
弁慶の出生地と言われる田辺市には、彼にゆかりのある史跡が多く存在します。市庁舎の前に見事な枝振りをみせている「弁慶松」は彼の誕生を記念して植えられたといわれています。
弁慶の父と言われる熊野別当・湛増(くまのべっとう・たんぞう)ゆかりの闘けい神社には、弁慶が産湯を使ったと言われる産場の釜。八坂神社の腰掛け石、産湯の井戸など数々の史跡が残されています。









